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The Great Gatsby 華麗なるギャツビー
Chapter8-1
Francis Scott Fitzgerald F・スコット・フィッツジェラルド
AOZORA BUNKO 青空文庫
ぼくは一晩中眠れずにいた。海峡からは霧笛《むてき》がひっきりなしに聞こえてきて、ぼくは、グロテスクな現実と粗暴でおぞましい夢との間で、寝返りをうちつづけた。
夜も明けきらないころ、ギャツビー邸の私道に入りこむタクシーの走行音を耳にしたぼくは、ベッドから跳ね起き、身支度を整えはじめた――なにか、かれに伝えるべきことが、かれに警告すべきことがあって、しかも、朝を待てば手遅れになるというような気がしていた。
芝生を横切って行ってみると、玄関のドアが開けっぱなしになっている。ギャツビーは、大広間のテーブルにもたれかかって、落胆のためか眠気のためか、ひどく気重なようすでいた。
「何も起きませんでしたよ」と、かれは弱々しく言った。
「私はあのまま待っていました。四時ごろ、あのひとは窓のところに来てしばらくそこに立っていたかと思うと、明かりを消してしまいました」
この夜、葉巻を探して家中をさまよったときほどにかれの家をだだっ広く感じたことはなかった。
天幕《てんまく》みたいなカーテンを二人で開け広げ、電灯のスイッチを求めて、暗中《あんちゅう》の壁を何メートルも何メートルも手探りしていった――一度など、つまずいた拍子に、亡霊じみたピアノの鍵打音みたいな音を立ててしまったくらいだ。
どこもかしかも、説明に耐えないほどの量の埃が散り積もっていて、もう何日も空気を入れ替えていないのだろうか、かびくさい匂いがした。
見なれないテーブルの上に葉巻入れが見えた。中には、古びて乾いた葉巻が二本、収められていた。
ぼくらは応接室の窓を開け放ち、暗い部屋の中で一服しはじめた。
「連中はあなたの車を突き止めてしまうに決まってます」
「一週間ほど、アトランティック・シティにでもお行きなさい。それかモントリオールに」
かれはぼくの提案を一顧《いっこ》だにしなかった。デイジーがこれからどうするつもりなのか知るまでは、デイジーを置いていくわけにはいかないというのだ。
かれは、最後の希望とでもいうべきものにすがりついている状態にあって、ぼくとしても、そこからかれを引き離すのは忍びなかった。
ぼくが、ダン・コーディーと過ごしたかれの青春時代の奇妙な物語を聞かされたのは、この夜のことだ――かれが話したわけは、「ジェイ・ギャツビー」がトムの堅硬な悪意にぶつかってガラスのように砕けてしまったからで、長らく秘密にしてきた狂劇《エクストラバガンザ》に幕が降ろされたからでもある。
いま思えば、あのときのギャツビーならば、なにを聞かれてもまったく保留をつけずに話してくれたのだろうけど、それでもやはりギャツビーが話したかったのはデイジーのことだった。
かれにとって、デイジーははじめて見知った「洗練された」少女だった。
具体的には不明ながら、さまざまな資格でそういった人々と接触してきたギャツビーだったのだけど、かれらはいつもギャツビーとの間に有棘鉄線《ゆうしてっせん》を築いて対応していた。
そのギャツビーにとって、デイジーは心騒がせるほどに好ましかった。
かれはデイジーの家を訪ねた。最初は、キャンプ・テイラーの将校たちと一緒に。それからひとりで。
かれは驚嘆した――あれほどまでに美しい屋敷を見たことがなかったのだ。でも、そこに固唾《かたず》をのませるほどに熱中させるような雰囲気があったのは、デイジーがそこに暮らしていたためだった――かれにとってのキャンプのテントと同じく、デイジーはその屋敷に何気なく暮らしていた。
そこには円熟した神秘があった。階上の寝室はほかのどんな寝室よりも美しく涼やか。廊下でまきおこる陽気で華やかな動き。恋、といってもとうにラベンダーの中に寝かされているようなかび臭い恋などではなく、今年の輝くばかりの自動車や、まだその花々のしおれるには至っていない舞踏会のような、生き生きとして香《かぐわ》しい恋。
多くの人々がデイジーに恋をしたということもまた、かれを興奮させた――かれの目にはそのことがデイジーの価値をさらに高めるように思えたのだ。
かれらの存在は家中に感じられた。いまだ華やかさを失わない感情の影と残響とともに。
けれどかれは、自分がデイジーの屋敷の中にいるのは途方もない偶然のおかげだということを熟知していた。
ジェイ・ギャツビーとしての未来にどれほどの栄光が約束されていたとしても、金も経歴もない一青年であり、軍服という隠れ蓑《みの》がいつ肩から滑り落ちるか分かったものではなかった。
得られるものはなんでも、貪婪《どんらん》に、無節操に奪った――そして最終的には、十月のある静かな夜、デイジーをも奪ったのだ。デイジーを奪ったそのわけは、彼女の手に触れる正当な権利を持たなかったからなのだ。
かれが自分を軽蔑したとしてもおかしくはない。うわべを偽ってデイジーを奪ったと言われれば確かにそうだ。
といってもありもしない財産を騙《かた》ったというわけではないのだろう。ただデイジーにある種の安心感を与えるための作為《さくい》があったのは間違いない。かれは自分がデイジーと同じ階層の出であると信じこませ――自分がデイジーの面倒を完璧に見てやれる男だということを信じこませたのだ。
事実はといえば、かれにそんな能のあるはずはない――裕福な家系という後ろ盾《だて》があるわけでもなく、官僚的な政府の気まぐれで世界のどこに飛ばされるかわかったものではない身だった。
けれども、かれは自分を軽蔑しなかったし、また、事態もかれの想像どおりには進行しなかった。
かれの意図としては、おそらく、手にできるだけのものを奪った上で去るつもりだったのだろう――が、いつのまにか、かれは自分があの聖杯探求《せいはいたんきゅう》の誓いを立てているのに気がついた。
かれはデイジーの奇矯《ききょう》さは知っていたけれど、「洗練された」娘がどれほど奇矯になれるものなのかについては気づきもしなかった。
デイジーは、その豊かな屋敷の中へ、豊かで充実した生活の中へと消え去った。ギャツビーは取り残された――なにひとつ残されないままに。
ただ、デイジーと結婚したという気分、それですべてだった。
二日後、二人は再会した。息を切らしていたのはギャツビーのほうで、なんとなく、裏切られたような感じがした。
屋敷のポーチでは金のかかっている贅沢品が綺羅星《きらぼし》のように輝いていた。デイジーがギャツビーに体を向け、ギャツビーがデイジーの愛らしくも不思議な唇に口づけすると、籐椅子《とういす》が軽やかに軋《きし》んだ。
デイジーは風邪を引いていて、そのため、彼女の声はそれまでなかったほどにかすれた魅力的な声になっていた。そしてギャツビーは圧倒されるような想いで認識した。富が若さと神秘性を繋ぎとめ、護りつづけるということを。衣服の数と新鮮さが比例するということを。そしてデイジーが、銀のように輝きながら、貧乏人の悪戦苦闘《あくせんくとう》を見下ろす形で、安全に、誇り高く生きているということを。
「デイジーへの愛情を自覚した時にどんなに驚いたことか、説明できないくらいですよ、尊公。
しばらくの間は、デイジーが私を捨ててくれるのを期待してさえいましたが、そうはなりませんでした。デイジーもまた私のことを愛していたのですから。
私はデイジーが知らないようなことを知っておりましたもので、デイジーは私のことを大変な物知りだと思ったのです……
さて、それから私は、己の野望を捨て、ただただ愛を深めていきました。そしてふと気が付くと、もうどうでもよくなっていたのです。
これから何をするつもりかをデイジーに語るだけで心地よい時間を過ごせるのです。それなのに、偉業を成したところでなんになるというのです?」
海外に赴く前の日の午後、かれはデイジーをその腕に抱いて、長いこと一言もなく座っていた。
肌寒い秋の一日。暖炉の火がデイジーの頬を紅《あか》く照らした。
ときどきデイジーが身じろぎすると、ギャツビーもまたほんのすこし腕加減を変えた。一度などは鈍く輝く彼女の髪に口づけしたりもした。
二人はしばらくの間平穏に包まれていた。その午後に、長い別れを翌日に控えた二人のために深い思い出を作ってやろうという意思でもあったのだろうか。
それは、愛に満ちた一ヶ月中、二人がもっとも近しく、もっとも深く心を通わせた時間だった。たとえば、彼女が物言わぬ唇をかれの肩に押し当てたとき。かれが、眠っている相手にするように、そっと彼女の指先に触れたとき。
前線に赴く前は大尉《たいい》だったのが、アルゴンヌの戦いを経て少佐《しょうさ》に任官され、機関銃部隊の指揮をとった。
休戦後、かれはしゃにむに帰国を希望したものの、何かの手違いか勘違いかでオックスフォードにやられることになった。
かれは不安になった――デイジーからの手紙には絶望的な調子がみられるようになった。
デイジーはなぜギャツビーが帰ってこないのかがわからなかった。
周囲からのプレッシャーを感じては、ギャツビーを見、ギャツビーの存在を感じ、結局のところ自分が正しいことをやっているのだと安心させてもらいたかった。
というのは、デイジーも若かったし、彼女の人工的な世界は蘭《らん》の香り立つ世界で、心地よくて陽気な気取りが溢れ、オーケストラはその年の流行曲を奏でては日々の悲しさや期待を真新しい響きで要約してみせるような、そんな世界だったからだ。
夜な夜な、サキソフォンが『ビール・ストリート・ブルース』のよるべない調べを涙ながらに奏で、数百組にもなる金銀のスリッパがきらめく粉をかき乱す。
薄暗いお茶の時間になると、この弱々しくも甘美な情熱にひっきりなしに脈動する部屋が常にあり、また、フロアに響き渡る悲しいホルンに吹かれては舞うバラの花びらのような、新鮮な顔があちらこちらをただよっていた。
この黄昏《たそがれ》の世界を、社交シーズンがくるとともにデイジーはふたたび動き出した。とつぜん、いまふたたび一日に六人の男と六つのデートの約束をするようになり、夜明けには、消えゆく香りの染みついたイブニングドレスをベッドそばの床に放り、そのドレスを飾るビーズやシフォンと一緒に、浅い眠りについた。
彼女の内にあるなにかが、決断を求めて泣き叫んでいた。
自分の生活を、いますぐに、形作りたかった――その決断は、なにかの力による必要があった――愛の力、金の力、反問《はんもん》を許さない現実の力――それも手近なものによって。
その力は春の中ごろにトム・ブキャナンの到来《とうらい》という形をとった。
かれ個人にもかれの身分にも健全な質感があって、デイジーは浮ついてしまった。
そこに、ある種の苦悩とある種の安堵《あんど》があったのは疑いない。
手紙は、まだオックスフォードにいたギャツビーの元に届けられた。
Copyright (C) Francis Scott Fitzgerald, Kareha