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The Great Gatsby 華麗なるギャツビー
Chapter9-6
Francis Scott Fitzgerald F・スコット・フィッツジェラルド
AOZORA BUNKO 青空文庫
十月のある夕暮れどき、五番街でトム・ブキャナンに出会った。
かれはぼくの先を、いつもと同じきびきびした突っかかるような姿勢で歩いていた。まるで邪魔者を払いのけようとするかのように肩をいからせ、頭をきびきびと動かしながら、落ちつきなくあたりに目を配っている。
追いついてしまわないよう歩みをゆるめると、かれは立ち止まり、眉をしかめながら宝石店のショーウィンドウをのぞきこんだ。
そして不意にふりかえり、手を差し出しながらぼくのところにやってきた。
「何かあったのか、ニック? おれと握手するのが嫌なのか?」
「そうだ。ぼくがきみのことをどう思っているか、分かってるだろう」
「どうかしてるぜ、ニック」かれは間髪《かんぱつ》をいれず言った。「ほんとうにどうかしてる。いったい何があったってのか、さっぱり分からんね」
「トム」ぼくはなじるように言った。「あの日の午後、ウィルソンに何を言ったんだ?」
かれは一言もいわずにぼくをにらんでいた。それで分かった。ぼくはあの空白の数時間について、正しく見当をつけていたのだ。
ぼくが踵《きびす》をかえすと、トムは一歩足を踏み出し、後ろからぼくの腕をつかんだ。
あいつ、おれたちが 二階で出かける準備をしてるところにやってきて、留守だと伝えさせたら、力ずくで階段をあがってこようとしたんだ。
すっかりどうかしちまってておれを殺さんばかりの勢いだったから、しかたなくあの車の持ち主を教えてやった。
うちにいる間ずっとポケットの拳銃から手を離さないんだぞ」ここでかれは反抗的に言葉を切った。
「で、教えてやったからどうだってんだ? あの野郎が自分で撒《ま》いた種じゃないか。おまえもデイジーみたいに目くらましを食らってしまったようだが、あいつは実際ひどい人間だぜ。
マートルを犬ころみたいにはねとばしやがって、しかも停まろうとしなかったんだからな」
ぼくからは何も言うことができなかった。いや、ひとつだけ言えるとすればそれは真相じゃないということだが、その事実を口外《こうがい》するわけにはいかなかった。
「それに、もしおれだけがぜんぜん平気でいるんだなんて思ってんのなら――いいか、あの部屋を引き払いに行って、サイドボードの上に犬用ビスケットの缶のやつがのっかってるのを見たときなんか、おれも赤ん坊みたいに座りこんで泣いちまったんだぜ。まったく、やりきれなかった――」
かれを許す気にも、好きにもなれなかった。だが、かれがやったことは、かれにとっては、全面的に正当なものだったわけだ。
不注意な人々、トムとデイジー――物も命も粉々に打ち砕いておいて、さっさと身を引き、金だか底無しの不注意さだか、とにかく二人を結びつけているものの中にたてこもった。そして、自分たちが生み出した残骸《スクラップ》の後始末を他人におしつける……
ぼくはかれの手を握った。そうしないのが馬鹿らしく思えた。というのは、突然、まるで自分が子供と話しているような気がしてきたからだ。
それからかれは真珠《しんじゅ》の首飾りを――いや、ただのカフスボタンだったかもしれないけれど――求めて宝石店に入って行き、ぼくという狭量《きょうりょう》な堅物《かたぶつ》の前から去って、二度と姿を見せなかった。
ギャツビーの屋敷はぼくが越していくときも空家のままだった――芝生は、ぼくのところの芝生と変わらないくらい伸びていた。
村のタクシー運転手のひとりは運賃も取らずにギャツビー邸の門前まで車を走らせ、停まることなく内部を指で示したりしていた。ひょっとしたら、かれこそがあの事故の夜にデイジーとギャツビーをイースト・エッグに運んだ運転手なのかもしれない。そしてひょっとしたら、それにまつわる物語を自分勝手にこしらえていたりしたのかもしれない。
ぼくはそれを聞きたくなかった。列車から降りるときはかれのタクシーに乗りあわせないようにした。
土曜の夜は決まってニューヨークで過ごした。さもないと、かれの絢爛《けんらん》なパーティーはとても生き生きとぼくの胸に刻みこまれていたから、いまだぼくの耳には、かれの庭からかすかながらも消えることのない音楽や笑い声が、かれの私道からは自動車が出入りする騒音が、聞こえてきたのだ。
ある晩、ぼくは一台の本物の車が屋敷までやってきて、その灯りが門前で停まったのを、ほんとうに見た。
たぶん、それは最後のゲストで、地の果てにでもいたせいでパーティーが終わったことをご存じなかったのだろう。
最後の晩、トランクもパックし終わり、車も雑貨店に売り払った後、ぼくは矛盾《むじゅん》の果てに敗北した屋敷をもう一度見ようと表に出た。
白いステップの上に、どこかの子供が煉瓦《れんが》で書きつけたのだろう、けしからぬ言葉が月光の下はっきりと照らしだされていた。ぼくはそこの石材を靴でごしごし踏みにじり、それを消した。
それからふらりとビーチに下り、砂浜に大の字になった。
広大なビーチの大部分はいまや閉鎖されてしまい、ひどく薄暗かった。明かりといえばただ、海峡を渡るフェリーの留まることを知らない光があるだけ。
月が高く高く昇るにつれ、無用の館は溶けはじめ、やがてぼくはこの島のかつての姿を徐々に意識するようになった。オランダの船乗《ふなの》りたちの目には、この島が、緑鮮やかな新たな陸地として花開いただろう。
いまはない木立、ギャツビーの屋敷に場所を譲《ゆず》った木立が、そのとき、あらゆる人類の夢のうち最後にして最大の夢を歌いさざめいた。魔法が解けるまでの束の間、男はこの大陸の存在を前に息をすることも忘れ、理解も望みもしない詩的考察を強いられたに違いない。それは人類が、胸が高鳴れば高鳴るほどに大きくなってゆく何物かと対面した、史上最後の瞬間だった。
ぼくは体を起こして、その遠い、知る由もない世界に思いを馳せた。そしてぼくはギャツビーのことを考えた。ギャツビーは、デイジーの屋敷の桟橋《さんばし》の先端にあった緑色の光をはじめて見つけたとき、どれほど胸を高鳴らせただろう。
長い旅路を経てこの青い芝生にやってきたかれには、自分の夢がつかみそこないようのないほど近くにあるように思えたに違いない。
かれは、それがとうに過去のものになったことを知らなかった。それがあるべきところは、あの都市が茫漠《ぼうばく》として形もなかったいつかのどこか、この共和国がいまだ夜の帳《とばり》の下にうねり広がっていたころの闇深《やみぶか》き原野だったのだ。
ギャツビーは信じていた。あの緑色の光を、年々ぼくらから遠ざかっていく、うっとりするような未来を。
あのときはぼくらの手をすりぬけていったけれど、大丈夫――明日のぼくらはもっと速く走り、もっと遠くまで腕を伸ばす……そしていつかきっと夜明けの光を浴びながら――
だからぼくらは流れにさからい、止むことなく過去へと押し流されながらも、力をふりしぼり、漕いでゆく。
Copyright (C) Francis Scott Fitzgerald, Kareha