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A Dog of Flanders 10 フランダースの犬


Ouida ウィーダ
AOZORA BUNKO 青空文庫
 さて、ネロには、秘密がありました。そのことは、パトラッシュだけしか知りませんでした。
小屋には小さな離れがありました。ネロ以外は誰も入らなかった部屋で、ひどくわびしい場所でした。でも、北側からたっぷりと光が入ってきました。
ここにネロは、そまつな板で、適当に画架をつくりました。そこに大きな灰色の紙を広げて、頭に浮かんだ数えきれないほどの想像のうちの一つを形にしました。
ネロはこれまで誰にも教わったことはありません。色のついたクレヨンは、ネロには買いようがありませんでした。ここにある、わずかな粗末な道具を揃えるのでさえ、ネロは時々食事を抜かなければなりませんでした。 そして、ネロが見たものを形にするのは、ただ白と黒だけでした。
 彼がクレヨンで描いていたこのすばらしい画は、倒れた木に座っている老人、ただそれだけのものでした。
ネロは、年をとった木こりのミッシェルが夕方にそうやって座っている姿を、しょっちゅう見たことがありました。
ネロには、デッサンとか遠近法とか解剖学とか影の描き方といった、絵の技法について教えてくれる人はいませんでした。それなのに、年老いた弱々しい木こりの、とても悲しげで静かに堪え忍んでいるような様子が、あるいはごつごつとしているが疲れ切った様子が、ネロ独特の情念でもって、みごとに描かれていました。ネロが描いた、暮れゆく秋の夕暮れの暗闇の中で、何かもの思いにふけりながら枯れ木に座っている、年老いた孤独な人物の絵は、さながら一編の詩のようでした。
 もちろん、絵は荒削りで、いろいろな欠点もありました。それなのに、その絵は真に迫っていて、とても自然で、芸術的で、そしてとてももの悲しく、美しかったのです。
 パトラッシュは、ネロが毎日の仕事が終わった後で作品を少しずつ完成させようとしているのを、数え切れないほどの時間、おとなしく見守ってきました。そして、パトラッシュはネロがある望みを抱いていることを知っていました。それは、おそらく空しく、荒唐無稽ともいえる望みでしたが、ネロはこの望みを深く胸に秘めていました。それは、この絵を年に二百フランの賞金がもらえるコンクールに出品し、優勝することでした。このコンクールは、絵の才能のある十八歳以下の若者なら、学生であろうと農民であろうと誰でも参加できることになっていて、提出できる作品は、誰の助けも借りずに自分で描き上げたクレヨン画か鉛筆画とされていました。
ルーベンスの町、アントワープで一番有名な三人の画家が審査員でした。三人の多数決で優勝作品が決まるのです。
 春と夏と秋の間中、ネロはこの絵を描き続けました。もし優勝すれば、暮らしの心配もなくなり、今までめくらめっぽう、ただ訳もなく情熱的にあこがれてきた芸術の神秘に向けて、一歩踏み出せるのです。
 ネロは、誰にもこのことを話しませんでした。おじいさんには分からなかったでしょうし、ネロはアロアを失ってしまっていました。
「もしルーベンスがこのことを知っていたなら、きっと賞をぼくにくれると思うんだ」と、パトラッシュだけに思いのすべてを話しました。
 パトラッシュもそう思いました。なぜなら、パトラッシュはルーベンスが犬好きだったことを知っていました。そうでなかったら、あんなに見事に生き生きと犬の絵を描けなかったでしょう。そして、パトラッシュが知っていたように、犬が大好きな人は、誰でも皆、憐れみ深いものなのです。
 絵の提出期限は、十二月一日で、賞の発表は二十四日でした。優勝者が優勝をクリスマスに家族と一緒にお祝いできるようにしていたのでした。
 ひどく寒い冬の黄昏時に、ネロは時には希望に燃え、時には恐怖で目がくらみそうになりながら、その傑作を緑色の荷車に積み込み、パトラッシュに手伝ってもらって、町に行って、決められたとおり、町の公会堂の入り口にその絵を置いてきました。
「この絵には、何の価値もないのかも知れない。どうしたら、それがぼくに分かるんだ?」と、ネロはおどおどと胸を痛めながら思いました。
ネロが公会堂に絵を置いた今、ネロは、自分のような靴下もはかず、ほとんど文字さえ読めないような少年が、偉大な画家であり、本物の芸術家である審査員が認めてくれるような絵を描けると夢見るなんて、とても無茶で途方もなく、ばかげたことのように思えました。
 それでも、大聖堂を通り過ぎたとき、ネロは元気を取り戻しました。ネロには、ルーベンスの偉大な姿が霧と闇の中からぼうっと現れて、くちもとにやさしい笑みを浮かべながら、ネロに向かって次のようにささやいたように思われました。「だめだよ、勇気を出しなさい。
私の名前がアントワープの町に永久に刻まれたのは、わたしが弱気になったり、おどおどとおびえたりしなかったからだよ」
 ネロはその言葉に慰められ、寒い夜を家に走って帰ってきました。
ネロは、最善を尽くしました。後は神様のおぼしめしだ、とネロは思いました。ヤナギやポプラの木に取り囲まれた小さい灰色の教会で教えられたとおり、ネロは、素直に、何の疑いもなく、神様を信仰していました。
 厳しい冬がはじまっていました。
その夜二人が小屋に着いたあと、雪が降りはじめ、何日も降りつづきました。このために、道と畑の区別がよくつかなくなり、小さな小川は凍りつきました。そして、平野中、厳しい寒さにおおわれました。
そうなると、まだ朝暗いうちからほうぼうを回ってミルクを集め、暗い中を静かな町に向かってミルクを運ぶ仕事は、本当につらい仕事になります。
 とりわけ、パトラッシュにとってはそうでした。月日が経って、ネロが力強い若者に成長した一方、パトラッシュは年寄りになっていました。関節はこわばるし、骨はずきずきと痛みました。
しかし、パトラッシュは自分の仕事を絶対にあきらめようとはしませんでした。
ネロはむしろパトラッシュをいたわり、自分だけで荷車を引いていきたかったくらいです。しかし、パトラッシュがそれを許しませんでした。
パトラッシュが許し、受け入れたのは、せいぜい氷のわだちの中をガタピシと進むとき、荷車の後ろから後押ししてもらうことだけでした。
 パトラッシュは引き具とともに生きてきました。そして、パトラッシュはそれを誇りにしていました。
パトラッシュは、ときどき霜やひどくぬかるんだ道や、リュウマチによる手足の痛みにとても苦しめられました。けれども、パトラッシュはハアハアと息をしながら、たくましい首をまげ、あくまでも忍耐強く、前へ前へと歩いていきました。
「パトラッシュ、家で休んでいたらどうだい? もうお前は休んでいる時分だよ。それに、ぼく一人で十分荷車を引くことができるよ」 ネロは、よくパトラッシュに休むようすすめました。 パトラッシュはネロが何をいっているか、分かっていましたが、進軍ラッパが鳴り響くとしりごみしない歴戦の兵士のように、けっして家でじっとしてようとはしませんでした。そして、毎朝パトラッシュは起きるとかじ棒に体を入れ、長い長い間四本の足で無数の足あとを刻んできた雪の積もった平原を、とぼとぼと歩いていくのでした。
「死ぬまで休んじゃいけない」と、パトラッシュは思いました。けれども、時々、もう休む時がそう遠くないように思われることがありました。
目は昔ほどよく見えないようになっていました。それに、教会の鐘が五時を告げて、夜明けの労働がはじまることを知らせた時、パトラッシュはわらの寝床からぱっと飛び起きていましたが、今では夜寝た後、起きるのがつらくなってきていました。
「パトラッシュや、かわいそうになあ。わしたちは二人とも、もうすぐ静かに休むことになるじゃろうよ」 年老いたジェハンじいさんは言って、しわだらけの手でパトラッシュの頭をなでてやりました。その手は、いつもパトラッシュと粗末なパンのかけらを分かち合ってきた手でした。そして、老人と老犬は、同じ思いに胸を痛めていました。 二人が去ったあと、誰が愛しいネロの面倒をみてくれるのだろうかと。
 
Copyright (C) Ouida, Kojiro Araki
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