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A Dog of Flanders 16 フランダースの犬


Ouida ウィーダ
AOZORA BUNKO 青空文庫
 パトラッシュは忍び寄り、少年の顔を触りました。
「ぼくがあなたに忠実でなく、あなたを見捨てるとでも思ったのですか? ぼくが犬だからって?」 パトラッシュは人間の言葉は話せませんでしたが、黙ってさわることでこうネロに語りかけたのです。
 少年は低く叫びながら起きあがり、パトラッシュを抱きしめました。
「一緒に死のう」と、ネロはつぶやきました。
「みんな、ぼくたちに用はないんだ。ぼくたち、二人きりなんだよ」
 その答えに、パトラッシュはもっとネロのそばに近づき、頭を若い少年の胸の上に乗せました。
パトラッシュの茶色の、悲しい目に、大粒の涙が浮かびました。自分自身のためではありませんでした。なぜなら、パトラッシュは幸せだったのですから。
 彼らは刺し通すような寒さの中で、一緒にぴったり寄り添って横たわっていました。
北の海からフランダース地方の堤防を吹き抜けてきた激しい風は、まるで氷の波のようでした。それは触れた生き物すべてを凍らせました。
彼らがいた巨大な石造りの丸天井の建物の内部は、雪に覆われた外の平野より、もっとひどく冷たかったのです。
時々、コウモリが闇で動きました。時々、かすかな光が、彫像が列になっているところに差し込みました。
ルーベンスの絵の下で彼らは一緒に静かに横たわり、寒さで感覚がまったく麻痺して、ほとんど夢見心地になりました。
 一緒になって、彼らは昔の楽しかった日のことを夢見ました。夏の草原の中、花が咲いている草の間をぬって追いかけっこをしたり、晴れた日に高いガマの木陰の水際に座って、船が海の方へ行くのを見た日のことを。
 突然、暗闇の中から、大きな白い光が通路いっぱいに流れ出しました。雲の間から、月が輝きました。雪は、やみました。外の雪から反射される光は、夜明けの光のように明るく輝きました。
光はアーチを伝って二つの絵の上を照らしました。ネロはその絵をおおっていた覆い布をさっと取りました。その瞬間、「キリスト昇架」と「キリスト降架」が見えました。
 ネロは立ち上がって、腕を絵の方に伸ばしました。熱烈な歓喜の涙が、彼の血の気のない顔に輝きました。
「ぼくは、とうとう見ることができた!」 ネロは声を出して泣きました。
「神さま、もう十分です!」
 足で支え切れなくなってひざまづきましたが、ネロはなおあこがれていたキリスト像を見上げ続けていました。
ほんのしばらくの間、まるで天国の玉座から流れ出してきたかのように、明るく、甘く、強い光が、あんなにも長い間ネロが見ることができなかった神聖な光景を照らしだしました。
突然、光は消えてしまいました。再び暗闇がキリストの顔を覆いました。
 再び少年は両腕で犬の体をだきしめました。
「ぼくたち、もうじきイエスさまに会えるんだよ、あそこで」と、ネロはつぶやきました。「イエスさまは、ぼくたちを離ればなれになさりはしない、と思うんだ」
 翌朝、教会の大聖堂の聖壇のそばで、アントワープの人々は二人を見つけました。
彼らは、どちらも死んでいました。夜の寒さは、若い命も、年老いた命も等しく、凍え死なせたのでした。
クリスマスの朝が明けて、司祭たちが教会にやってきた時、ネロとパトラッシュが一緒に石の上に横たわっているのを発見したのです。
覆いがルーベンスのすばらしい名画からはずされ、二人の頭上では、朝日の新鮮な光が、いばらの冠をかぶったキリストの頭を照らしていました。
 日が高くなると、年老いた、険しい顔つきの男が、女のように泣きながらやってきました。
「おれは、この子にひどくつらくあたってきた」 彼はつぶやきました。「やっと今、償いをするはずだったのに。そうだ、財産の半分をやって、将来は、おれの息子になっていたはずだったのに」
 さらに日が高くなると、世界的に有名なある画家もやってきました。その画家は、物惜しみをしない、度量の大きな人物でした。
「私は、きのう当然優勝すべきだったはずの少年を探しているところだ。その子は、まれに見る将来有望な天才なのだ」と、みんなに言いました。
「たそがれどきに倒れた木に腰かけている、年をとった木こり。その子の絵は、ただそれを描いただけのものだった。
けれども、その絵には将来の偉大さが隠されていた。
何とかその子を見つけ出して、連れて帰って芸術を仕込んでやりたいのだ」
 それから金髪の巻き毛の女の子が、父親の腕にしがみつきながらはげしくすすり泣き、「ネロ、きてちょうだい!」と叫びました。
「もう準備は出来ているのよ。
おさな子イエスの格好をした子どもが手にクリスマスのプレゼントをいっぱい抱えているし、笛吹きのおじいさんが私たちのために笛を吹いてくれることになっているのよ。お母さんだってクリスマスの週の間中、いいえ、王様のお祭りの間までだって、私たちと一緒に暖炉のそばでクルミを焼きましょう、って言っているのよ。
パトラッシュもとっても喜ぶわよ! 
ああ、ネロ。起きて、来てちょうだい!」
 しかし、若く青白い顔は、光輝くルーベンスの名画に向けられ、口もとに笑みを浮かべながら、彼ら皆に答えました。「もう手遅れです」
 甘く朗々とした鐘の音が、凍てつくような寒さの中で鳴り響きました。そして、太陽は雪の野原の上で輝いていました。にぎやかに楽しげに人々が通りに集まってきました。でも、もうネロとパトラッシュが人々に施しを求めることはありませんでした。
 彼らが必要としたものすべてを、アントワープの町は求められないままに与えました。
彼らにとって死は、なまじ生き長らえるよりも慈悲深かったのでした。
死は、パトラッシュから忠実な愛を、ネロから純粋無垢な信頼の心を奪い去りました。この世で愛は報いられず、信じる心は実を結びませんでした。
 生涯ずっと、彼らは一緒でした。そして、死んでも別れませんでした。というのは、少年の腕が犬をしっかりと抱きしめていて、手荒に扱わなければ引き離すことができないことが分かった時、小さな村の人々は後悔し、恥じ入って、神様の格別のお慈悲を願い、彼らのために一つのお墓を作ったのです。一緒に安らかに眠ることができるように。いつまでも!
 
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