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The Old Man and the Sea 21 老人と海


Ernest Miller Hemingway アーネスト・ヘミングウェイ
AOZORA BUNKO 青空文庫
 老人が海に出てから三度目の日の出を迎えた頃、魚の軌跡が円を描き始めた。
 ロープの傾きからは、周回しているとは思えなかった。回るのはまだ早すぎる。
ロープの引きがわずかに緩むのを感じ、彼は右手で静かに引き始めた。
ロープはやはり強く張っていたが、切れる寸前まで張り詰めたと思うと、徐々に手繰れるようになった。
彼は両手を左右に振り、体と脚も使って、できる限り引こうとした。
老いた脚と肩が、その往復運動の軸になっていた。
「ずいぶん大きな円だな」老人は言った。「だが確かに回っている」
 ロープは少しも引けなくなった。そのまま握っていると、日差しの中でロープから水滴が跳ねるのが見えた。
今度は、ロープが出て行き始めた。老人は膝をつき、暗い水の中へとロープが引き込まれていくのを惜しんだ。
「円の一番遠いところに差し掛かったようだ」老人は言った。
できる限り引いていよう、と彼は思った。引いていれば、円はだんだん小さくなる。
一時間後には奴の姿が見えるだろう。そして思い知らせてやる。俺が奴を殺すんだ。
 だが、魚はゆっくりと円を描き続けた。二時間後には、老人は汗でびしょ濡れになり、すっかり疲れ切っていた。
しかし円はずいぶん小さくなっていたし、ロープの傾きからすると魚が少しずつ浮上してきているのも確かだった。
 一時間前から、老人の眼前には黒い斑点が浮かんでいた。汗の塩分が目に入り、まぶたや額の傷にも沁みる。
彼は視界の斑点など恐れてはいなかった。
ロープを引く時の緊張にはつきものだからだ。
しかし、眩暈を覚えふらついたことが既に二度あった。こちらは気がかりだ。
「あの魚を前に、弱気になって死ぬわけにはいかない」彼は言った。
「ここまで立派に引っ張ったんだ、神様の助けがあってもいいじゃないか。
『主の祈り』を百回、『アヴェ・マリア』を百回でも唱えよう。だが今すぐは無理だ」
 唱えたということにしよう、と彼は考えた。後でちゃんとやればいい。
 その時、両手でつかんでいたロープに、突然ぐっと強い引きが来た。激しく重く強烈な引きだ。
 奴のあの槍が、針金の鉤素を叩いているんだ。彼は考えた。当然だ、そうせざるをえまい。
だが、その勢いで跳ねられるのは困る。まだ回り続けてほしいところだ。
空気を求めて跳ねてしまうんだろうが、跳ねるたびに鉤が引っかかった口の傷が開いてしまう。そのうち鉤を振り捨てられてしまうかもしれない。
「魚よ、跳ねるな」彼は言った。「跳ねるなよ」
 魚は何度も鉤素を叩いた。魚が頭を振るたびに、老人は少しずつロープを送り出してやった。
 奴の痛みをこれ以上にしてはいけない。彼は思った。
俺の痛みなど問題じゃない。俺は痛みに耐えられるが、奴は我慢できず暴れ出すかもしれないんだ。
 しばらくすると、魚は鉤素を叩くのをやめ、再びゆっくりと周回を始めた。
老人は少しずつロープを手繰った。
が、また眩暈に襲われた。
彼は左手で海水をすくい、頭からかける。
さらにもう一度かけてから、首の後ろをさすった。
「引きつりはない」彼は言った。「奴はもう上がってくる。俺はやれるぞ。やるしかない。言うまでもないだろうが」
 彼は舳先に膝をつき、いったん、先ほどと同様に背中にロープを回した。
奴が円を描いて遠ざかっていくうちは、俺は休んでおこう。そして近づいてきた時には、立ち上がっていよいよ仕事だ。彼はそう決めた。
 魚には勝手に周回させておき、ロープを引くこともなしに、舳先で休んでいたい。それはとても魅力的な誘惑だった。
しかし、魚が大きく回って船に近づいてきていることをロープが示すと、老人は立ち上がった。体を軸として、機織のようにロープを引き始める。彼はロープを手繰れるだけ手繰った。
 今までこれほど疲れたことはなかった。彼はそう思った。貿易風が吹いてきたぞ。
奴を連れて帰るには都合がいい。ぜひとも必要な風だ。
 
Copyright (C) Ernest Miller Hemingway, Kyo Ishinami
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