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Jonas Salk ジョーナス・ソーク
Jonas Salk ジョーナス・ソーク
AMERICAN MEN of SCIENCE and INVENTION
「私は、解くべき問題がなくなる時など、想像もできない」
このことばは、数多くの人々がかたわになるのを予防する小児麻痺(まひ)ワクチンを開発した科学者、ジョーナス・ソーク博士が言ったものである。
多くの有名な科学者と違って、彼が科学の世界と接触したのは大学に入ってからだった。
高校では科学の勉強は何もせず、法律の世界へ進むつもりだった。
だが大学1年のころ、彼のことばを借りると、「好奇心から」いくつか科学の授業をとった。
彼の興味は呼び起こされ、じきに彼は、科学に優秀な学生であることが、明らかになった。
教育を受けるためにかかる費用を、自分でかせがなければならなかったにもかかわらず、落胆しなかった。
1934年に大学を終えると、ソークは、医学校に入った。
学校のアドバイザーが、研究者の収入が少ないことを言っても、彼はこう答えた。「人生は、金がすべてではありません。」
そのうえ彼は医学の勉強を1年遅らせてまで、化学の研究をした。
医者になると、彼は、ミシガン大学の公衆衛生学部のスタッフに加わった。
そこで彼は、インフルエンザを研究するメンバーとして、この病気に対するワクチンを捜した。
彼は、世界中で病気を起こしているビールスについて勉強を続けた。
そして1947年、彼は、ピッツバーグ大学で小児麻痺ビールスの研究を始めた。
この研究には、自分自身小児麻痺患者であったフランクリン・D・ルーズベルト大統領が設立した小児麻痺者協会から援助資金が出ていた。
小児麻痺ビールスを実験室で培養できることは、ハーバード大学で、別の研究グループが発見していた。
1953年までには、彼の小児麻痺ワクチンの探求は、かなり進んでおり、ピッツバーグ付近に住む志願者に、何度か試験することができた。
このテストにより、不活化ビールスを体内に入れることで、血液中に自然な小児麻痺抗体を増やし、危険な副作用も起こさないことがわかった。
これらの初期の限られたテストから、今度は、大がかりな実験へと進み、1954年の小児麻痺シーズンの始まる前に、それは行われた。
1年後の1955年4月、ソークは、ワクチンが成功したことを発表した。
科学は、病気に対する世界中の努力に、また新しい武器を得たのである。
ソーク博士が、小児麻痺ワクチンは、世界中の研究所にいる科学者の長年の努力のたまものである、とまっ先に指摘した。
彼は、研究への資金援助が、アメリカ国民の自発的な寄付であったことを特に強調した。
そして、ワクチンの効力は何百人もの公衆衛生員の協力がなければ、こんなに素早く証明することはできなかったと彼が最初に感謝した。
そして彼は、何よりもまず、驚くべき信頼を寄せて子どもをワクチンの実験の危険にさらした両親たちの「科学的精神」をたたえた。
"最初のワクチン実験から数年たち、世界中の数多くの人がこの病気から守られている。
現在は、アメリカ以外の多くの国でもワクチンを生産し、至る所ですばらしい成果をあげている。
アメリカでは、40歳以下のアメリカ人がほとんど全員、ワクチンの接種を受けている。
その結果、ワクチンができてから毎年、小児麻痺患者は着実に減ってきた。
例えば、1955年には、30,000件が報告された。
1956年には、7,000以下に減り、1年後には、2,000件ちょっとが報告された。
ソークの小児麻痺ワクチンの成功は、今日の衛生科学の急速な進歩の裏には、時として何千人もの人々と何百万ドルもの資金がいることを証明している。
科学の発見は、すでに、たった一人ではできなくなっているのだ。"
ソーク博士にとって、もちろん、小児麻痺ワクチンで彼の仕事が終わったわけではない。
彼は、現在も集中的にビールスの研究をしており、大昔からある、病気のいろいろな問題を解決しようとしている。
彼は、人類の生活状況を向上し、病気があるところでそれと戦っていくには、まだ長い道のりがあることをよく知っている。
この戦いでの自分の役割をソーク博士は、次のように言っている。「本当の芸術家は、その時点で自分がやっているのが最高だと信じていなければ、絵を描き上げることはできない。
一歩一歩築きあげられる進歩に伴う経験によって、われわれは、われわれとともに生き、われわれのあとに続く人々の健康と幸福に貢献できるのだ。」
Reproduced by the courtesy of the Voice of America