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Thomas Jefferson トマス・ジェファーソン
Thomas Jefferson トマス・ジェファーソン
DISTINGUISHED AMERICAN SERIES
トマス・ジェファーソンほど、アメリカ合衆国の政治機構に影響を与えた人はおそらくいないでしょう。
彼はアメリカ独立宣言書の起草者であり、権利章典の支持者であり、アメリカ合衆国国民が自らを治める手段としての二大政党の一つの創立者であり、アメリカ合衆国第3代大統領なのです。
トマス・ジェファーソンとは、どのような人物だったのでしょうか。
彼は1743年4月13日、現在のバージニア州オールバーマール郡にあるシャドウェルで生まれましたが、彼は生涯を通じて、自分の生まれた階級には他人の生活と考えを支配する権利のないことを主張しました。
彼の父親であるピーター・ジェファーソンは、農園主として成功した人であり、その地方では名士でした。そして彼の母親は、バージニア州で最も古い家柄の一つである貴族風のランドルフ家の出でした。
ジェファーソンはこう書いています。「社会の究極の力を蓄えておく安全な場は、国民以外には考えられない。そして、もしその国民が健全な良識をもって、これを自由に操作するほど啓発されていないと思われる場合には、国民に操作させないのではなく、教育によって国民の良識を育てることが、その対応策である。」
この考え方は、数多くの「ジェファーソンの原則」と言われているものの一つで、アメリカ合衆国国是の基礎を成しているものです。
ジェファーソンから直接発達した民主党、および共和党の両党は、ジェファーソンが初めて思い切った計画-国民教育無料法案-を立案した時、これは正しいものだと思いました。
これが、アメリカにおける現在の公立教育制度の基礎となっているものです。
ジェファーソンの社会に対する考え方は、同時代の人々よりはるか先を行っていたので、現在ならアメリカのどこででも受け入れられているようなものでも、その時代としては彼の考え方は過激すぎて受け入れられないものが多かったのです。
一例を挙げれば、エイブラハム・リンカーンと南北戦争が奴隷解放を行った100年前に、このことを主張していました。
ジェファーソンは1762年、バージニア州のウィリアム・アンド・メリー大学を卒業して弁護士となり、非常に繁盛しました。
彼は初対面の人には人見知りをし、控え目でしたが、大胆に物事を考え、物腰が柔らかく、知性に優れ、態度が親切でしたので、彼を容易に好きになりました。
ジョン・アダムズは彼についてこう言っています。「彼はテキパキしていて、率直で、はっきりしていて、断固としていたので……話し方なのだが……私はやがて彼のとりこになってしまった。」
ジェファーソンは、1769年にバージニア州下院議員となって政治生活に入りました。
彼が民主主義的な考えを持った、強固な自由主義者として知られるようになったのは、ここでのことです。
彼は、政治権力は一般国民に属すべきだと信じ、信仰の自由と出版の自由を支持しました。
彼が導入した法律の一つは、バージニア州信仰の自由に関する法令です。
ジェファーソンとその一派は、この法律を通過させようとして、長期間にわたる激しい闘いを行い、ついに1786年1月16日、ジェファーソンが下院を辞したあとに、完全な信仰の自由に関する最初の憲章が通過しました。
これは後に、合衆国憲法に権利章典が付加された時のモデルとして役に立つことになったのです。
1772年、29歳の時、ジェファーソンは美しい未亡人マーサ(ウェイルズ)スケルトンと結婚し、よき夫となりました。
6人の子どものうち、マーサとメアリ(またはマリア)の2人だけが、成人になるまで生き延びました。
ジェファーソン一家は、ワシントンD.C.の南約100マイルの地点にある、バージニア州シャーロッツビル付近の一軒の大邸宅で、当時まだ建築中のモンティチェロで結婚生活を始めました。
1782年にモンティチェロを訪れた有名なフランス人シャトリュ侯爵は、次のように報じています。「ジェファーソン氏は雨露をしのぐために、美術を参照した最初のアメリカ人である。」
いろいろな変更を加えたため、ジェファーソンがモンティチェロを完成したのは、彼が66歳の時でした。
ジェファーソンはアメリカ植民地居住者の権利を支持したため、1775年および1776年の第2回大陸会議に選ばれました。
アメリカに住むイギリス人植民地居住者たちは、遠く離れた政府の作った、多くの人々に悪法と思われたものに対して、しだいに腹を立てていきました。
すべての植民地居住者は、王にそろって苦情を申し立てるための会合を開こうと思いました。
フィラデルフィアでは、植民地居住者たちはどうしたらいいのかについて、盛んに話し合いました。
そのあげく、13の植民地を完全にイギリスから独立させたいという人が過半数を占めたのです。
彼らは、この重大な行動の理由を示す宣言書を作成するための委員会を設立し、その中にはトマス・ジェファーソンも含まれていました。
17日間というもの、ジェファーソンはフィラデルフィアのマーケット・ストリートとセブンス・ストリートの角にある新しいれんが造りの家の2階の一室に閉じこもり、宣言書の草稿を起草し、修正し、最終稿にまとめ、これを浄書しました。
普段はさらさらと書くジェファーソンでしたが、この書類は「アメリカの人々の考え方を表現する意図を示す」ものであると思ったため、この時は一語一語を慎重に選びました。
宣言書は、次のことばで始まっていました。「人間の歴史の流れの中で、一団の人々をほかの集団の人々に結びつけていた政治的きずなを断ち切る必要が生じた時……」そして、次のような衝撃的なことばが続いています。
「以下の事実は自明のものとする。すなわち、すべての人間は平等の生を受け、すべての人間は生まれながらの、また譲渡できない諸権利を神から授かり、その中には生命、自由、幸福の追求を含む。さらに、この諸権利を享受するために、人間の中に国家を作り、統治される者の同意に基づいてその正当なる権力を与えるものとする……」
連邦議会は後に「生まれながらの、また」ということばを削除し、その代わりに「ある」を入れました。
議論をし、ジョン・アダムズ、ベンジャミン・フランクリン、連邦議会の意見を取り入れて若干手直しをした後、1776年7月4日に独立宣言が採択されました。この日は、今ではアメリカ合衆国建国の日として毎年お祝いしています。
エイブラハム・リンカーンは独立宣言書の意味を知り、
1859年にこう書いています。ジェファーソンは「冷静さと、先見の明と、才能に恵まれており、一片の革命文書の中に、すべての人、すべての時代に適合する抽象的な真理を織り込んだため、今日および永遠の将来にわたって、専制政治再現を志す者を抑え、これをくじくものとして長く記憶にとどまるものである。」
1776年9月、ジェファーソンはフィラデルフィアを去り、故郷にもどり、そこでバージニア州下院議員に選ばれました。
その職にとどまっていましたが、1779年6月にはパトリック・ヘンリーのあとを継いで、バージニア州知事となりました。
ジェファーソンの妻は、1782年に悲劇的に夭(よう)折しました。
1783年6月、ジェファーソンはバージニア州から選出されて、連邦議会の議員になりました。
6か月間で彼は31もの国家案を書きましたが、そのいくつかはきわめて重要なものです。
1785年、彼はベンジャミン・フランクリンのあとを継いで、フランス大使となり、そこでも「勤勉にして有能な外交官」ぶりを発揮しました。
1789年末、ジェファーソンが祖国にもどると、やがて彼はジョージ・ワシントン大統領から国務長官の職につくよう要請されました。
最初ジェファーソンは辞退しました。フランス大使として比較的平穏な職についたあとでは、国の政治に巻き込まれたいとは思わなかったからです。
しかし、ワシントンは懇請を続け、ジェファーソンはついに初代国務長官になることを承諾しました。
国務長官時代はおそらく、当時の財務長官アレクサンダー・ハミルトンとの何度にもわたる不和により最もよく記憶されています。
ジェファーソンは国民の合意が自由の基礎であると信じていましたが、ハミルトンはどちらかと言うと政府の行政管理力強化に賛成でした。
ジェファーソンを支持した人々は自らを「共和党員」と称し、ハミルトン派の「連邦党員」と対立しました。
ワシントン大統領は、きわめて穏やかな態度で彼らの意見の相違を調整し、この価値ある両長官を内閣から出すことをしませんでした。
1793年12月に内閣を辞すると、ジェファーソンは喜んでモンティチェロにもどり再び引退しようとしましたが、1796年には再度呼び出され、ジョン・アダムズ大統領の下で副大統領に就任しました。
4年後の1800年には、ジェファーソンは2期連続の第1期の大統領に選ばれました。
大統領時代の最大の業績の一つは、ナポレオンからのルイジアナ地域買収でした。
この買収により、当時のアメリカの国土は倍増し、17の新たな州が成立したのです。
権力のための権力はジェファーソンには魅力がなく、彼は自分自身の「田舎」、バージニア高原をしばしば望んでいました。1809年、2期目を終えると、ようやく静かな生活にもどれると思い、彼の友人であり隣人であるジェームズ・マジソンに大統領の座を譲りました、
年とった元大統領は喜んでモンティチェロの彼の家族、書物、土地のもとへともどり、その地で最後の17年間の生涯を送りました。
ジェファーソンの最後の公共の仕事はバージニア大学の創立でしたが、同大学は彼の丘の上の家から見下ろすことができます。
彼は大学の建物を設計し、講座の概略を示し、大学ができ上がっていくのをたいへんな関心を持って見守り、82歳の時に初代学長となりました。
彼の教育に対するたいへんな関心は、民主政治を心から信じていたために生じたものでした。
民主主義制度の下で、無料の教育によって国民が啓発されれば、そのほかいかなる制度下において行われるよりも、自治が達成されると彼は信じていました。
晩年のジェファーソンは国の長老政治家となりました。
何千もの人々が彼に会って話をするためにモンティチェロに赴きました。
自由を築いたこの人に死が訪れたのは1826年7月4日、彼が83歳の時であり-アメリカ合衆国建国記念50周年の時でした。
彼自身の要請で、モンティチェロにある墓を示す質素な墓石には、アメリカ合衆国の2度にわたる大統領としてというよりは、彼自身が書いた次の墓碑に彼がよく表れています。
Reproduced by the courtesy of the Voice of America