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Episode-21 Tin Pan Alley
Episode-21 Tin Pan Alley
WORDS AND THEIR STORIES
どのようにしてアメリカ英語に入って来たのだろうか。
きょうのことばは、「ティン・パン・アリー」である。
長い間、「ティン・パン・アリー」ということばが表して来たのは、アメリカのポピュラー音楽と、それらを有名にした作曲家や出版社であった。
そのことばが使われるようになったのは、1800年代後期、ニューヨーク市のにぎやかで混雑した28番街であった。
その当時、音楽出版社の事務所がこの通りに並んでいた。
事務所のピアノから流れる音楽が辺りを満たしていた。
その音楽を奏でているのは、ピアノの実演宣伝者や歌の売り込み屋など、新しい歌を売り込もうとする人たちであった。
彼らが演奏し、歌った曲を聞かせる相手は、オーケストラのリーダー、ボードビル歌手、オペレッタおよびミュージカル・コメディーのスターなど、歌を大衆に聞かせる人だった。
70年前のある日、ニューヨークの新聞記者がハリー・ボン・ティルサ-の出版社を訪ねた。
記者のモンロー・ローゼンフェルドは、一連の記事をアメリカのポピュラー音楽について書こうと計画していた。
訪問中に、彼は、だれかがボン・ティルサー氏のピアノを弾いているのを聞いた。
ローゼンフェルド氏には、これが、ブリキなべがぶつかり合う音に聞こえた。
「ティン・パン・ミュージック」と彼はいって、しばらくそのことばをつぶやいていた。
そして彼はいった。「なんと、この通り全体がティン・パン・アリー(ブリキなべ通り)ではないか」
ローゼンフェルド氏はこの表現を使って、出版業界の記事を書いた。
この時からニューヨークの28番街は、ティン・パン・アリーとして知られるようになった。
しかし、ティン・パン・アリーは、音楽出版社以上のことを意味するようになった。
それは、アメリカのポピュラー音楽の一時代も作り出し、1880年から1930年ごろまで続いたのである。
作曲家たちは、新しい作曲法を生み出し、それらを出版し、売り、そして大衆の心に生き生きと残した。
昔は、アメリカの出版社が主に手がけていたのは堅い音楽だった。しかし世紀の終わりごろになると、何人かの若い人たちはこの傾向を改めようと決意し、思い切って音楽出版の事業を始めることにした。
ある者は、楽譜のセールスマンとか印刷業者であった。
またある者は作曲家で、考えていたことは、作曲家にとって自分の歌を出版する最も簡単な方法は、自分でやることだということだった。
彼らは、ニューヨークへ行った。そこには歌を歌い、売り出してくれる歌手がいた。
ティン・パン・アリーで、アメリカのポピュラー音楽は発達した。
ここで出版されたのは、バラード、ラブソング、悲しい歌、おかしな歌、オペレッタ、ミュージカル・コメディーのための歌、ラグタイム、ジャズ、ブルースであった。
ティン・パン・アリーからは、次のような偉大な作曲家が出た。ジョージ・ガーシュイン、アービング・バーリン、ジェローム・カーン、コール・ポーター、リチャード・ロジャースなどである。
ティン・パン・アリーで、作曲家たちは、その商売、つまり、大衆は何を求めるか、どうすれば歌が売れるかなどを覚えた。
ティン・パン・アリーのアメリカ音楽の中心地としての終わりが来たのは、1930年ごろであった。レコード、ラジオ、トーキー映画などが生まれたからである。
しかし、ティン・パン・アリーという名称は、現在でも使われており、アメリカの音楽産業と、この歌の通りで育ったポピュラー音楽の偉大な作曲家を表している。
Reproduced by the courtesy of the Voice of America