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Sherlock Holmes Collection シャーロック・ホームズ コレクション
A Study In Scarlet 緋色の研究 第二部 第六章 1
Sir Arthur Conan Doyle アーサー・コナン・ドイル
AOZORA BUNKO 青空文庫
捕らえられた男はすさまじい抵抗を見せたが、別段我々に敵意を抱いているわけではないらしく、詮無いと悟ると愛想よく微笑み、今の争いで怪我はなかったかとこちらを気遣ってまでくれた。
「本署の方へ連れて行くんでしょう?」と訊かれたのはシャーロック・ホームズだ。
「うちの馬車が戸口に。脚を解いて下されば、自分でそこまで下りて行きます。
グレグソンとレストレードは互いに見合う。どうやら今の提案を差し出がましいと考えたようだが、ホームズは捕まった男の発言をただちに信じ、足首を縛っていた布巾を緩める。
立ち上がって脚を伸ばす男は、脚が再び自由になったことを噛みしめるようで。
このときの私は、男をじっと見やりつつひとりこう思っていた。ここまで頑丈そうな男はそういない、それに日に焼けた色黒の顔は覚悟を決めた風で、膂力だけではない恐るべき力に漲っている。
「警察の長が空席なら、ふさわしいのはあなたのような人でしょうね。」と、わが同居人を見つめながら男は手放しで褒める。
「僕も同行しよう。」と刑事ふたりに告げるホームズ。
「うむ! ではグレグソンは僕と車内へ。君もだ、博士ドクター。この事件にずっとご執心だったから、ついてくるのも悪くない。」
捕まった男は逃げる素振りさえなく、自分の元業務用馬車まで踏みしめるように進み、我々もあとからついていく。
レストレードが御者台に上がり馬に鞭打つと、あっという間に目的地だ。
一同は小部屋のなかへ通され、主任の警部が捕らえた男の名と、犯した殺人の被害者らの名を書き留める。
青白い顔の係官は淡々とした表情でただ機械的に職務を果たしていった。
「被疑者は今週中に判事の前へ出廷となります。ジェファースン・ホープさん、それまでに言っておきたいことはありますか。
ただし言っておきますが、あなたの証言はすべて書き留められ、あなたに不利な証拠となるおそれがあります。」
「言うべきことはたくさんある。」と捕まった男はゆっくり口を開く。
「審理の際まで伏せておいた方が賢明では?」と問い返す主任。
「驚かれるには当たりません。自殺を考えているのでもなく。あなたはお医者様ですね。」
男はぎろりと黒目を私に向けて、今の質問を発したのだ。
「ではここへ手をお当てに。」と微笑みながら手錠のはめられた手首を胸に当てて促す。
言われた通りにして私はすぐにはっとした。胸の内にあるのはまさしく心室細動。
がたつく胸壁の震え方はまるで、安普請のなかで強力な発動機を回しているかのよう。
静まりかえった室内、まさにそこから鈍くうなり出てくる雑音が聞こえたような、そんな気が私はした。
「何と。」と私は声を張る。「君、大動脈瘤じゃないか!」
「そういう病名だとか。」と話しぶりは落ち着いている。
「先週その件でお医者様に伺うと、お話ではもう数日しないうちに間違いなく破裂すると。
ソルト・レイク山地で陽に曝されすぎたことと栄養不足とがあだとなりました。
やるべきことはもう果たしましたし、今すぐ死のうとも構いません。事の次第をそれなりに後に残しておければと。十人並みの殺人鬼として記憶されるのは本意ではありません。」
主任とふたりの刑事は慌てて話し合う。身の上話をこの場でさせてよいものかと。
「ご所見は、博士ドクター? 事は急を要しますか。」と訊くのは主任だ。「まず間違いなく。」と答える私。
「そうとなれば、正義に資するためここで本人の供述を採ることこそわたくしどもの務め。」と主任。
「君、好きなように申し開きしなさい。繰り返し言っておくが、述べたことは記録される。」
「失敬、座ります。」と捕まった男は言うと同時に身を動かす。
「この動脈瘤のせいで体力がないもので、それに半時間前の取っ組み合いが身体に障ったようで。
口にする言葉はすべてまったくの真実、それをどう使われようが私には取るに足らないこと。」
こう言いながらジェファースン・ホープは椅子にもたれかかり、これより先の驚くべき供述を始めたのだった。
口ぶりは平然として淀みがないので、あたかも語られた出来事はごくありふれたことであるかのよう。
ここに付記された内容の正しさは私が請け合う。話された内容を一言一句書き留めたというレストレードの手帳から直に確かめてある。
「皆様にはどうでもいいですよね、私があいつらを恨んでいる理由など。」と男は切り出す。「ですので、やつらには罪がある、ふたりの人間――ある父と娘――の死について、とだけ。ゆえに、やつらは罰としてその命を失ったのです。
罪が犯されてからこれだけ時が過ぎ流れてしまっては、司法でやつらを有罪判決にできるわけがない。
とはいえ私はやつらの罪のことを知っている、ならばと覚悟したのです。自分が判事に陪審に死刑執行人、すべての役をひとりで務めるのが定めだと。
あなた方も同じ事をしたでしょう、人としての情があるなら、私の立場であったなら。
先ほど触れた娘とは、二〇年前私と結婚していたはずの少女のこと。
しかしあのドレッバーめと強制的に契らされ、そのため廃人になってしまいました。
私は死んだ彼女の指から結婚指輪を抜き取り、誓ったのです。死に行くやつの目にこの指輪を見せつけて、死ぬ間際の意識をその罰の元となった罪のことでいっぱいにさせてやると。
指輪を肌身離さず、やつとその共犯者を二大陸にわたって追いかけ、ついに捕まえました。
やつらは私をへばらせるつもりでしたがそんなの無駄です。
もしも私が明日死んでも、ありえることではありますが、この世での務めが、そう、きっちり果たされたと知った上で死ぬのです。
これ以上、思い残すことやり残したことなどあるものか。
やつらは持つ者、私は持たざる者、ですから追うのは容易いことではありません。
ロンドンに着いた際の私の懐はほぼ空で、生きるためとにかく何かせねばと思いました。
Copyright (C) Sir Arthur Conan Doyle, Yu Okubo