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The Memoirs of Sherlock Holmes シャーロック・ホームズの思い出
The Stock-Broker's Clerk 株式仲買人 4
Sir Arthur Conan Doyle アーサー・コナン・ドイル
AOZORA BUNKO 青空文庫
『よろしい! 約束だ。』と言って相手は椅子から立ち上がって、
『うむ、弟のためにこんなにいい人材が得られて嬉しい。
さあ住所を書いて。コーポレイション街一二六番地のB。明日の一時に面会だ。
これがそのときの会話のだいたいです。最近だから覚えてます。
わかるでしょう、ワトソン先生、どんなにぼくが、こんなあまりの幸運に喜んだか。
噛みしめるあまり夜中まで起きてて、次の日もバーミンガム行きの汽車が着いても、約束までは時間がありあまってたので、
ニュー街の宿に持ち物を預けて、そのあと指示された住所へ向かいました。
時間にはまだ一五分ありましたが、たいしたことはないと思ったので。
一二六番地のBは大きな店に挟まれたところに上がり口があって、石の螺旋階段に続いてその上にいくつもの続き部屋、会社や職人に事務所として貸してあるというわけで、
入居者の名前が壁の下の方に書いてあるのですけれど、仏・中英金物株式会社というような名前はなくって、
しばらくぼくはどぎまぎと立ちつくして、みんなみんな手の込んだ悪戯なんかじゃないのかと思っていると、そこへひとりの男が上がってきて、ぼくに声をかけてきて、
その男は前の晩に会ったやつとそっくりで、姿も声も同じだのに、鬚は剃ってて髪はてかてかでした。
『あなた、ホール・パイクロフトさん?』と聞くので、
『おお! お待ちしてました。でも時間よりもちょっと早かったんですね。
兄の知らせを受け取ったのが今朝で、あなたのことは大絶賛でしたよ。』
『まだ手前どもの名前は出しておりませんで、先週にこの仮住まいを決めたばかりですから。
ついていって、ずいぶん急な階段のてっぺんまで昇ると、そこは屋根のすぐ下で、一組の埃にまみれた空き室があって、絨毯も窓掛けもないところへ通されたんです。
自分が前にいたような、ぴかぴかの机にずらりと並んだ仲買人、というような大事務所を考えていただけに、正直言って、目をまっすぐ見開いてしまいました。松材の椅子二脚に小さな机ひとつ、台帳一冊に屑籠ひとつしか、家具がないんです。
『気落ちなさらずに、パイクロフトさん。』と知り合ったばかりの男が、ぼくの顔を眺め回しまして、
『ローマは一日にして成らず、手前どもの後ろには莫大な金があります。もっとも事務所ではまだその存在感がありませんが。
『あなたは兄のアーサーをよほど感心させたと見えますね。』と言いまして、『それに兄は人を見る目があります。
兄はロンドン派、手前はバーミンガム派と考えが違いますが、今日は兄の薦めに従いましょう。
『ゆくゆくはパリの大倉庫の管理を、そこで大量の英国製陶器をフランスに一三四ある代理店へ流してもらいます。
買い付けは一週間後に終わりますから、そのあいだはバーミンガムにお残りになって、手伝いをしていただければ。』
返事の代わりに引き出しから取り出されたのが、大きな赤い本です。
『これはパリの人名録で、人の名前のあとに職業があります。
こいつを持ち帰っていただいて、金物商全員を住所とともに抜き出していただきたい。
『けれど、職業別一覧があるんじゃあ?』とおそるおそる言うと、
『当てになりません。あれは手前どもとやり方が違う。
しっかりやって月曜の一二時までに一覧をいただければ。
さようなら、パイクロフトさん、勤勉聡明でさえあれば、会社も悪いようにしませんから。』
ぼくはその大きな本を小脇に抱えてホテルに戻ったんですけれど、胸のなかでは気持ちがぶつかりあってて、
一方では内定確実、懐に一〇〇ポンド、もう一方には事務所の見た目、壁にない表札、実業家として引っかかる点からして雇い主の姿勢に対する悪印象。
とはいっても、どうなるにしても、お金をもらいましたし、仕事に取り組むことにしました。
日曜は一日仕事に励んだんですけれど、月曜にはHまでだけで、
雇い主のところに顔を出して、相変わらず殺風景な部屋にいたんですけれど、水曜まで頑張ってまた来てくれと言われたんです。
水曜にもまだ終わらなかったので金曜までこつこつ――それが昨日のことで
『いやあかたじけない。』と相手は言いまして、『仕事の難しさを小さく見積もりすぎたようで。
『では今度は、』と相手は言って、『家具商の一覧を作っていただきたい。彼らも金物を売るので。』
『では明日の夕方七時に来て、進み具合を見せていただければ。
夕べに二時間ほどデイズ音楽堂に行っても、仕事のあとなら差し支えありませんよ。』
と相手が言いながら笑ったとき、ぼくは目に見えたものでぞっとしました。男の左手側から二番目の歯が、金でへたくそに詰めてありまして。」
シャーロック・ホームズは嬉しそうに手をこすりあわせ、私はいぶかしげに依頼人をにらみつける。
「意外という顔をされてますね、ワトソン先生、けれどこういうわけなのです。」とまた話が始まる。
「ロンドンでもうひとりと話していたときも、ぼくがモウソンに行かないことに笑った瞬間、たまたま目に入ったんです。まったく同じ感じで歯に詰め物がしてありました。
しかも声や姿が同じ、違うところだって剃刀と鬘さえあれば変えられるってことを考え合わせると、同一人物だってことに間違いはなくって、
そりゃあ普通兄弟は似ているんでしょうけれど、同じ歯の詰め物があるはずないのです。
Copyright (C) Sir Arthur Conan Doyle, Yu Okubo