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坊っちゃん 四 Botchan Chapter IV (3)
夏目漱石 Soseki Natsume
青空文庫 AOZORA BUNKO
「イナゴでもバッタでも、何でおれの床の中へ入れたんだ。おれがいつ、バッタを入れてくれと頼《たの》んだ」
「イナゴは温《ぬく》い所が好きじゃけれ、大方一人でおはいりたのじゃあろ」
「馬鹿あ云え。バッタが一人でおはいりになるなんて――バッタにおはいりになられてたまるもんか。――
けちな奴等《やつら》だ。自分で自分のした事が云えないくらいなら、てんでしないがいい。
証拠《しょうこ》さえ挙がらなければ、しらを切るつもりで図太く構えていやがる。
おれだって中学に居た時分は少しはいたずらもしたもんだ。しかしだれがしたと聞かれた時に、尻込みをするような卑怯《ひきょう》な事はただの一度もなかった。
したものはしたので、しないものはしないに極《きま》ってる。
おれなんぞは、いくら、いたずらをしたって潔白なものだ。
嘘を吐《つ》いて罰《ばつ》を逃《に》げるくらいなら、始めからいたずらなんかやるものか。
いたずらだけで罰はご免蒙《めんこうむ》るなんて下劣《げれつ》な根性がどこの国に流行《はや》ると思ってるんだ。
金は借りるが、返す事はご免だと云う連中はみんな、こんな奴等が卒業してやる仕事に相違《そうい》ない。
学校へはいって、嘘を吐いて、胡魔化《ごまか》して、陰《かげ》でこせこせ生意気な悪いたずらをして、そうして大きな面で卒業すれば教育を受けたもんだと癇違《かんちが》いをしていやがる。
おれはこんな腐《くさ》った了見《りょうけん》の奴等と談判するのは胸糞《むなくそ》が悪《わ》るいから、「そんなに云われなきゃ、聞かなくっていい。
中学校へはいって、上品も下品も区別が出来ないのは気の毒なものだ」と云って六人を逐《お》っ放《ぱな》してやった。
おれは言葉や様子こそあまり上品じゃないが、心はこいつらよりも遥《はる》かに上品なつもりだ。
上部《うわべ》だけは教師のおれよりよっぽどえらく見える。実は落ち付いているだけなお悪るい。
それからまた床へはいって横になったら、さっきの騒動《そうどう》で蚊帳の中はぶんぶん唸《うな》っている。
手燭《てしょく》をつけて一匹ずつ焼くなんて面倒な事は出来ないから、
釣手《つりて》をはずして、長く畳《たた》んでおいて部屋の中で横竪《よこたて》十文字に振《ふる》ったら、
環《かん》が飛んで手の甲《こう》をいやというほど撲《ぶ》った。
三度目に床へはいった時は少々落ち付いたがなかなか寝られない。
一体中学の先生なんて、どこへ行っても、こんなものを相手にするなら気の毒なものだ。
よっぽど辛防《しんぼう》強い朴念仁《ぼくねんじん》がなるんだろう。おれには到底やり切れない。
教育もない身分もない婆《ばあ》さんだが、人間としてはすこぶる尊《たっ》とい。
今まではあんなに世話になって別段難有《ありがた》いとも思わなかったが、こうして、一人で遠国へ来てみると、始めてあの親切がわかる。
越後《えちご》の笹飴《ささあめ》が食いたければ、わざわざ越後まで買いに行って食わしてやっても、食わせるだけの価値は充分《じゅうぶん》ある。
清はおれの事を欲がなくって、真直《まっすぐ》な気性だと云って、ほめるが、ほめられるおれよりも、ほめる本人の方が立派な人間だ。
清の事を考えながら、のつそつしていると、突然《とつぜん》おれの頭の上で、数で云ったら三四十人もあろうか、二階が落っこちるほどどん、どん、どんと拍子《ひょうし》を取って床板を踏みならす音がした。
すると足音に比例した大きな鬨《とき》の声が起《おこ》った。
おれは何事が持ち上がったのかと驚ろいて飛び起きた。
飛び起きる途端《とたん》に、ははあさっきの意趣返《いしゅがえ》しに生徒があばれるのだなと気がついた。
手前のわるい事は悪るかったと言ってしまわないうちは罪は消えないもんだ。
本来なら寝てから後悔《こうかい》してあしたの朝でもあやまりに来るのが本筋だ。
たとい、あやまらないまでも恐れ入って、静粛《せいしゅく》に寝ているべきだ。
寄宿舎を建てて豚《ぶた》でも飼っておきあしまいし。
気狂《きちが》いじみた真似《まね》も大抵《たいてい》にするがいい。どうするか見ろと、
寝巻のまま宿直部屋を飛び出して、楷子段《はしごだん》を三股半《みまたはん》に二階まで躍《おど》り上がった。
Copyright (C) Soseki Natsume, Yasotaro Morri, J. R. KENNEDY