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坊っちゃん 四 Botchan Chapter IV (4)
夏目漱石 Soseki Natsume
青空文庫 AOZORA BUNKO
すると不思議な事に、今まで頭の上で、たしかにどたばた暴れていたのが、急に静まり返って、
ランプはすでに消してあるから、暗くてどこに何が居るか判然と分《わか》らないが、人気《ひとけ》のあるとないとは様子でも知れる。
長く東から西へ貫《つらぬ》いた廊下《ろうか》には鼠《ねずみ》一匹《ぴき》も隠《かく》れていない。
廊下のはずれから月がさして、遥か向うが際どく明るい。
おれは小供の時から、よく夢《ゆめ》を見る癖があって、夢中《むちゅう》に跳ね起きて、わからぬ寝言を云って、人に笑われた事がよくある。
十六七の時ダイヤモンドを拾った夢を見た晩なぞは、むくりと立ち上がって、そばに居た兄に、今のダイヤモンドはどうしたと、非常な勢《いきおい》で尋《たず》ねたくらいだ。
その時は三日ばかりうち中《じゅう》の笑い草になって大いに弱った。
ことによると今のも夢かも知れない。しかしたしかにあばれたに違いないがと、
廊下の真中《まんなか》で考え込んでいると、月のさしている向うのはずれで、一二三わあと、三四十人の声がかたまって響《ひび》いたか
と思う間もなく、前のように拍子を取って、一同が床板《ゆかいた》を踏み鳴らした。
静かにしろ、夜なかだぞ、とこっちも負けんくらいな声を出して、廊下を向うへ馳《か》けだした。
おれの通る路《みち》は暗い、ただはずれに見える月あかりが目標《めじるし》だ。
おれが馳け出して二間も来たかと思うと、廊下の真中で、堅《かた》い大きなものに向脛《むこうずね》をぶつけて、あ痛いが頭へひびく間に、身体はすとんと前へ抛《ほう》り出された。
こん畜生《ちきしょう》と起き上がってみたが、馳けられない。
じれったいから、一本足で飛んで来たら、もう足音も人声も静まり返って、森《しん》としている。
いくら人間が卑怯だって、こんなに卑怯に出来るものじゃない。
こうなれば隠れている奴を引きずり出して、あやまらせてやるまではひかないぞと、
心を極《き》めて寝室《しんしつ》の一つを開けて中を検査しようと思ったが開かない。
錠《じょう》をかけてあるのか、机か何か積んで立て懸《か》けてあるのか、押《お》しても、押しても決して開かない。
今度は向う合せの北側の室《へや》を試みた。開かない事はやっぱり同然である。
おれが戸を開けて中に居る奴を引っ捕《つ》らまえてやろうと、焦慮《いらっ》てると、また東のはずれで鬨の声と足拍子が始まった。
この野郎《やろう》申し合せて、東西相応じておれを馬鹿にする気だな、
正直に白状してしまうが、おれは勇気のある割合に智慧《ちえ》が足りない。
江戸《えど》っ子は意気地《いくじ》がないと云われるのは残念だ。
宿直をして鼻垂《はなった》れ小僧《こぞう》にからかわれて、手のつけようがなくって、仕方がないから泣き寝入りにしたと思われちゃ一生の名折れだ。
旗本の元は清和源氏《せいわげんじ》で、多田《ただ》の満仲《まんじゅう》の後裔《こうえい》だ。
こんな土百姓《どびゃくしょう》とは生まれからして違うんだ。
ただ智慧のないところが惜しいだけだ。どうしていいか分らないのが困るだけだ。
世の中に正直が勝たないで、外に勝つものがあるか、考えてみろ。
今夜中に勝てなければ、あした勝つ。あした勝てなければ、あさって勝つ。
あさって勝てなければ、下宿から弁当を取り寄せて勝つまでここに居る。
おれはこう決心をしたから、廊下の真中へあぐらをかいて夜のあけるのを待っていた。
Copyright (C) Soseki Natsume, Yasotaro Morri, J. R. KENNEDY