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坊っちゃん 四 Botchan Chapter IV (5)

夏目漱石 Soseki Natsume

青空文庫 AOZORA BUNKO
蚊がぶんぶん来たけれども何ともなかった。
さっき、ぶつけた向脛を撫《な》でてみると、何だかぬらぬらする。
血が出るんだろう。
血なんか出たければ勝手に出るがいい。
そのうち最前からの疲《つか》れが出て、ついうとうと寝てしまった。
何だか騒がしいので、眼《め》が覚めた時はえっ糞《くそ》しまったと飛び上がった。
おれの坐《すわ》ってた右側にある戸が半分あいて、生徒が二人、おれの前に立っている。
おれは正気に返って、はっと思う途端に、おれの鼻の先にある生徒の足を引《ひ》っ攫《つか》んで、力任せにぐいと引いたら、
そいつは、どたりと仰向《あおむけ》に倒れた。
残る一人がちょっと狼狽《ろうばい》したところを、飛びかかって、肩を抑《おさ》えて二三度こづき廻したら、あっけに取られて、眼をぱちぱちさせた。
さあおれの部屋まで来い
と引っ立てると、弱虫だと見えて、一も二もなく尾《つ》いて来た。
夜《よ》はとうにあけている。
 おれが宿直部屋へ連れてきた奴を詰問《きつもん》し始めると、豚は、打《ぶ》っても擲いても豚だから、ただ知らんがなで、どこまでも通す了見と見えて、けっして白状しない。
そのうち一人来る、二人来る、だんだん二階から宿直部屋へ集まってくる。
見るとみんな眠《ねむ》そうに瞼《まぶた》をはらしている。
けちな奴等だ。一晩ぐらい寝ないで、そんな面をして男と云われるか。
面でも洗って議論に来いと云ってやったが、
 おれは五十人あまりを相手に約一時間ばかり押問答《おしもんどう》をしていると、ひょっくり狸がやって来た。
あとから聞いたら、小使が学校に騒動がありますって、わざわざ知らせに行ったのだそうだ。
これしきの事に、校長を呼ぶなんて意気地がなさ過ぎる。
それだから中学校の小使なんぞをしてるんだ。
 校長はひと通りおれの説明を聞いた。生徒の言草《いいぐさ》もちょっと聞いた。
追って処分するまでは、今まで通り学校へ出ろ。
早く顔を洗って、朝飯を食わないと時間に間に合わないから、早くしろ
と云って寄宿生をみんな放免《ほうめん》した。
手温《てぬ》るい事だ。
おれなら即席《そくせき》に寄宿生をことごとく退校してしまう。
こんな悠長《ゆうちょう》な事をするから生徒が宿直員を馬鹿にするんだ。
その上おれに向って、あなたもさぞご心配でお疲れでしょう、今日はご授業に及《およ》ばんと云うから、
おれはこう答えた。「いえ、ちっとも心配じゃありません。
こんな事が毎晩あっても、命のある間は心配にゃなりません。
授業はやります、
一晩ぐらい寝なくって、授業が出来ないくらいなら、頂戴《ちょうだい》した月給を学校の方へ割戻《わりもど》します」
校長は何と思ったものか、しばらくおれの顔を見つめていたが、しかし顔が大分はれていますよと注意した。
なるほど何だか少々重たい気がする。
その上べた一面痒《かゆ》い。
蚊がよっぽと刺《さ》したに相違ない。
おれは顔中ぼりぼり掻《か》きながら、顔はいくら膨《は》れたって、口はたしかにきけますから、授業には差し支《つか》えませんと答えた。
校長は笑いながら、大分元気ですねと賞《ほ》めた。
実を云うと賞めたんじゃあるまい、ひやかしたんだろう。
 
Copyright (C) Soseki Natsume, Yasotaro Morri, J. R. KENNEDY
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