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The Great Gatsby 華麗なるギャツビー
Chapter6-4
Francis Scott Fitzgerald F・スコット・フィッツジェラルド
AOZORA BUNKO 青空文庫
トムとデイジーが車を待つ間、ぼくもかれらと並んで玄関前のステップに座りこんでいた。
あたりは真っ暗で、ただ戸口から漏れくる明かりが三平方メートルほどの光を夜明け前の柔らかな闇から打ち出していた。
時折、頭上の更衣室に下ろされたブラインドの向こうで人影が動き、もうひとつの人影に場所を譲った。ここからは見えない鏡に向かってルージュをひき、パウダーをはたくひとたち。
「とにかく、ここのギャツビーってのはどういうやつなんだ?」と不意にトムが絡んだ。「派手に酒の密造でもやってるのか?」
「どこでそんなことを聞いたんだ?」とぼくは訊ねた。
「聞いたわけじゃない。想像だよ。最近の成金どもは大抵酒の密造をやってるもんだからな」
私道に敷き詰められた砂利《じゃり》がかれの足元で擦れ合う音をたてた。
「まあ、ここまで妙な生き物を揃えてみせたんだ、さぞ苦しみもあったはずだな」
かすかな風が吹き、デイジーの首もとの、煙るような灰色の毛皮の襟《えり》をそよがせた。
「少なくともわたしたちが知ってるひとたちより面白いとは思ったけど」とデイジーは無理してそう言った。
「言うほど面白がっていたようには見えなかったがね」
「気がついてたか、あのとき、あの娘からシャワー室までつれていってくれって頼まれたときのデイジーの顔?」
デイジーは、かすれた律動的なささやき声で口ずさみはじめた。一語一語に、これまでにない、そしてこれからくりかえされることもなさそうな意味をこめて。
曲が高い音域に達するとデイジーの声音は甘く乱れ、コントラルトとしては常のやり方ながら、それに合わせてキーを変えるたび、デイジーが持つ人間的魅力という魔法があたりに切り出されてゆく。
「招かれもしないのにやってくるひとがたくさんいるのよ」とデイジーはふと言いだした。
ああいう、無理やりやってくるひとたちを、あのひとは礼儀正しすぎて追い帰せないだけ」
「あのひとってのが何者で何をやってるのか、それを知りたいものだね」とトムはなおも言う。「いまにきっとつきとめてやる」
「知りたいならいまここで教えてあげる」とデイジー。
「ドラッグストアとかを持ってたの、ドラッグストアをたくさん。あのひとが自分で作った」
すっかり遅くなったリムジンが私道をこちらに向かってきた。
デイジーの視線がぼくを離れ、ステップの光があたっているところを探った。そこに、開いたドアから、その年流行った聞き心地のいい悲しげな小ワルツ、『スリー・オクロック・イン・ザ・モーニング』が溢れだしていた。
結局のところ、ギャツビーのパーティーのさりげなさにこそ、デイジーの世界にはまったく存在していないロマンティックな可能性があったのだ。
家の中にもどってくるよう、デイジーに呼びかけるあの歌の中に何がこめられていたのか?
この先、見当もつかないほど遥かでおぼろな未来に、いったい何が起きようというのか?
あるいは、信じられないようなゲストが到着し、それが驚いてしかるべきかぎりなく珍しい人物、若く美しい女性で、ギャツビーをほんの一目、見る。その超常的な邂逅《かいこう》の瞬間、揺るぎなく愛を捧げつづけた五年間は消し飛ばされてしまうかもしれないのだ。
ぼくは夜遅くまで残った。ギャツビーから、自分の手が空くまで待っていて欲しいと頼まれたからだ。ぼくは庭に居残った。やがていつもどおりに泳ぎに行っていた連中が、冷えきり、ほろ酔い加減で、暗いビーチから駈けあがってくる。二階の客室の電気が消える。
それからやっとギャツビーがステップを降りてきた。日焼けした顔にはいつもと違った緊張の色が見え、瞳はぎらぎら光って、いかにも疲れているようだった。
「デイジーは気に入らなかった」とかれは前置きもなく言った。
「デイジーは気に入らなかった」と言い張る。「楽しく過ごせなかった」
かれは黙りこんだ。口には出せないほどに気落ちしているのだと思われた。
「あのひとが酷く遠く感じられるのです。中々分かって貰えない」
「ダンス?」かれは自分が踊ったダンスというダンスをまとめて払いのけるように指を鳴らした。
ギャツビーがデイジーに望んでいたことは、他でもない、トムのところに行って「あなたのことなんか愛したことない」と言ってのけることだった。
その発言で四年の歳月を解消した後、採るべき現実的手段を決める。
そうした計画のひとつは、自由になって実家にもどった彼女とルイビルで結婚するというものだった――ちょうど、五年の歳月を巻きもどすようにして。
昔は分かってくれるひとだったのに。私達は何時間も一緒に座って――」
そこでかれは口を閉ざし、果物の皮、破棄《はき》された贈り物、ひしゃげた花々で散らかっている小道を、行ったり来たりしはじめた。
「ぼくだったらそんなに多くは求めないけどな」ぼくは思いきって言った。「過去はくりかえせないよ」
「過去はくりかえせない?」とギャツビーは疑わしげに叫んだ。
「何を言うのです、勿論《もちろん》くりかえせますよ!」
かれは勢いよく周囲を見まわした。過去はこの家の影に潜んでいて、ただ手の届かない場所にあるだけだとでも思ったのか。
「私は何もかもを以前と同じ状態に直すつもりです」と言い、断固としてうなずいた。「あのひとも分かってくれることでしょう」
ギャツビーは過去のことを延々と話した。ぼくはいろいろと考えあわせ、かれは、自分自身のとらえ方などといった、かれにデイジーを愛させた何かをとりもどそうとしているのだ、と結論した。
デイジーを愛するようになってからというもの、かれの人生は混乱し、無秩序に進行していったけれども、いったん特定の場所まで立ち返ってそこからゆっくりと全体をたどりなおすことができたならば、かれにも見つけ出せただろう、かれにデイジーを愛させたものの正体を……。
……とある、五年前の秋の夜、枯葉の舞い散る中、通りを散歩していた二人は、やがて一本の樹木もない場所に出た。足元の道が月光に白く照り輝いている。
その夜のひんやりとした空気は、なぜか胸騒ぎを覚えさせるような、年に二度訪れる変化のときにおなじみのものだった。
家々の静かな灯りが闇《やみ》に向けてハミングし、星々はせわしなく動きまわった。
ギャツビーは、その瞳の片隅で、歩道のブロックが本物の梯子《はしご》のように伸びて、木々の上に隠された秘密の場所へと通じているのを認めた――かれはそれを昇ることができた、もしひとりで昇るのならば。昇りさえすれば、その先にある命のパン粥をすすり、比肩するものなき驚異のミルクを飲みくだせたことだろう。
デイジーの白い顔がかれに近づくにつれ、ギャツビーの心臓の鼓動はますます速くなっていく。
かれは知っていた。目の前の娘に口づけを与え、己の語りようのないほどのビジョンと娘のはかない吐息《といき》を契《ちぎ》らせてしまえば、もはや、かれの精神は神の精神のようには飛び回ることができなくなるのだ。
だからかれはじっと待った。もうしばらくだけ、星を打つ音叉《おんさ》の響きに耳を傾ける。
唇がふれたとたん、ギャツビーの胸中におけるデイジーはみごとに花開き、生身《なまみ》の存在であることをやめたのだ。
ギャツビーの話を聞きながら、そのおぞましいほどの感傷を感じていると、ぼくの頭の引出しの中から何かが飛び出してきそうになった――難解なリズム、なくした言葉の断片、ぼくがずっと昔にどこかで耳にしたもの。
一瞬、それが言葉として形をとりそうになったけれど、ぼくは声を失ってしまったかのように、ただ口を開くことしかできなかった。そこに、一介の空気の振動どころではない、もっと苦闘を要する何かがこめられていたのだろうか。
だが、それは音になりえず、ぼくがもう少しで思い出せたものが伝えられる機会は永遠に失われてしまった。
Copyright (C) Francis Scott Fitzgerald, Kareha