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The Great Gatsby 華麗なるギャツビー
Chapter7-9
Francis Scott Fitzgerald F・スコット・フィッツジェラルド
AOZORA BUNKO 青空文庫
若いギリシャ人のマイカリス、灰の山のそばで軽食店を経営している青年が、その検死にあたってはもっとも重要な目撃者となった。
あの暑さの中、五時過ぎまで眠っていたかれが隣のガレージに立ち寄ってみると、ジョージ・ウィルソンが事務所で具合を悪くしているところにでくわした――本当に具合が悪そうで、顔色はその淡い髪の色と同じくらい青白く、ひっきりなしに震えていた。
マイカリスはウィルソンにベッドで横になった方がいいと忠告したが、ウィルソンは、そんなことをしていたら客をどんどん逃してしまうと言って拒んだ。
そんなかれを説得するうちに、階上からすさまじい物音が聞こえてきた。
「うちのやつを閉じこめてある」とウィルソンは落ち着き払って説明した。
「明後日まで閉じこめておく。それから、二人でここを出るんだ」
マイカリスは仰天した。この夫妻とは四年にわたって隣人としてつきあってきたものだが、ウィルソンがそのようなことのできる男のようにはどうしても見えなかった。
基本的に、ウィルソンはよくあるくたびれた男のひとりだった。仕事をしていないときは、戸口の奥の椅子に腰を下ろし、道路を過ぎてゆく車や人々をじっと見つめていたものだった。
だれかから話しかけられると、きまって、感じのよい、無色透明な笑い声をあげた。
妻に手綱《たずな》を握られていて、一人の男としては存在していなかった。
だから、当然、マイカリスはなにがあったのかを聞き出そうとしたが、ウィルソンは一言も口にしようとしない――その代わり、奇妙な、訝《いぶか》しげな眼差しをマイカリスに投げかけつつ、特定の日、特定の時間になにをしていたのか、問いかけてきた。
訪客が気まずく感じはじめたところに、労働者が幾人か、マイカリスのレストランに向かってくるのが見えたため、それを機にマイカリスはその場をいったん外すことにし、後からまたもどってくることにした。
が、もどることはなかった。忘れてしまったのだ、結局は。
やがてマイカリスが店の表に出たとき、時刻は七時を少し回っていた。そこでさきほどの会話を思い出したのは、ガレージの一階からマートル・ウィルソンのわめき声が飛んできたからだ。
「ぶちなさいよ!」マイカリスはマートルが叫ぶのを耳にした。「ぶちたいんならぶてばいいじゃない、この薄汚い卑怯者《ひきょうもの》!」
まもなく、彼女は両手を振っては何事かを叫びつつ、夕闇《ゆうやみ》の下に飛び出してきた――マイカリスが戸口から離れる時間もなく、ことは終わった。
新聞が「死の車」と書きたてたその車は、停まらなかった。濃密な闇《やみ》の中から踊り出、一瞬、悲しむようにふらついたかと思うと、次のカーブを回って姿を消した。
マブロマイカリスでさえ、その車の色についてはっきりと覚えていなかった――かれは最初にやってきた警官に向かって車の色はライト・グリーンだったと言っている。
もう一台の車、これはニューヨークに向かっていたのだが、さらに百メートルほど進んだところで停まり、運転手は、マートル・ウィルソンのところまで大急ぎで引き返してきた。その生命は強引に断ち切られ、突っ伏したまま、路上の埃をどす黒い血で染めていた。
彼女のそばに最初にやってきたのはマイカリスとこの男だ。けれども、いまだ汗に湿っていたブラウスを引き裂いてみると、左の胸がなかばもげた形でだらりとぶらさがっており、その下の心臓の鼓動を確かめるまでもなかった。
口は大きく開かれて端の方が少し裂けていた。あたかも、長いこと体内に貯えつづけていた凄まじいバイタリティを吐き出そうとして、のどにつまらせ、窒息《ちっそく》してしまったかのように。
ウィルソンのガレージの少し手前まできたところで、ぼくらの視界に三、四台の車が停まっているのが飛び込んできた。
「事故か!」とトムが言った。「よかったな。これでやっとウィルソンもちょっとは仕事にありつける」
トムはスピードを落としたけど、それは停まろうとしてのものではない。やがてガレージが近づき、その戸口にたむろする人々の、物静かながら好奇心をたたえた表情が見えたとたん、トムは反射的にブレーキをかけた。
いまやぼくは、ガレージからひっきりなしに聞こえてくる、空虚な嘆き声に気がついていた。その声は、車から降りて戸口に近づいてみるとはっきりと聞き取れるようになった。何度も何度もくりかえされる「ああ、神さま」という息も絶え絶えな呻《うめ》き声。
「なにかまずいことになってるみたいだな」とトムが興奮したように言った。
トムは背伸びして、人垣の頭の上からガレージの中をのぞきこんだ。室内の照明は、金網籠《かなあみかご》に入った黄色の電灯ひとつきりしか灯されていなかった。
トムは不快そうに喉を鳴らすと、力強い腕で強引《ごういん》に群集をかきわけていった。
あちこちでたしなめるような声が囁かれるとともに、人垣はふたたび閉じる。あっという間にぼくからはなにも見えなくなった。
さらに、新来の野次馬たちが列を乱したため、ジョーダンとぼくは気がつくと中に押しこまれてしまっていた。
マートル・ウィルソンの体は、毛布で二重に包まれていた。暑い夜だというのに、凍えそうになっているみたいだ。そうして、壁際《かべぎわ》の作業台に寝かされていた。トムは、ぼくらに背を向けたままマートルの上に屈《かが》みこんでいた。身じろぎもせずに。
その隣で、バイクでやってきた警官が、派手に汗をかきながら、そしてあれこれと訂正を入れながら、手帳に複数の名前を書きこんでいた。
最初、騒々しく響き渡る甲高《かんだか》い呻き声の源《みなもと》を、ぼくは飾り気のない事務所の中から見つけ出すことができなかった――それから、ウィルソンが事務所の一段高くなっている敷居のところに立っているのが目に入った。前後に体を揺らしながら、戸口の柱を両手でつかんでいる。
だれかが低い声で語りかけながら、時折、肩に手をあてたりしていたけれど、ウィルソンはなにも聞いていなかったし、なにも見ていなかった。
その瞳は揺れるライトを見上げては壁際の作業台に落とされ、ひっきりなしに、甲高い、身の毛のよだつような声を上げる。「ああ、神さま! ああ、神さま! ああ、神さま! ああ、神さまぁ!」
やがて、トムはあごを突き出すようにして顔を上げると、ぎらつく眼差しで瞳で見まわし、聞き取りづらい声で警官に呼びかけた。
「M・a・v――」と警官は言っていた。「――o――」
「いや、r――」相手が訂正する。「M・a・v・r・o――」
「g――」ここでトムがその肉厚な手で警官の肩をつかんだため、警官は顔を上げてトムを見た。
「なにがあったんだ?――そいつを聞きたいんだがね」
Copyright (C) Francis Scott Fitzgerald, Kareha