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The Old Man and the Sea 07 老人と海


Ernest Miller Hemingway アーネスト・ヘミングウェイ
AOZORA BUNKO 青空文庫
 老人は、鳥が旋回するあたりに向かって、安定した動きでゆっくりと漕いで行った。
決して急がず、ロープは垂直に保ったままだ。
正しい釣り方を崩さずに、とはいえ鳥を目標として多少は速度を上げるために、老人は少しだけ潮流に近づいて進んで行った。
 鳥は空高く舞い上がり、翼を動かさずに旋回したかと思うと、突然また降下した。
海からはトビウオたちが跳ね上がって、必死に水面を走った。
「シイラだ」老人は言った。「でかいシイラがいる」
 老人はオールを船内におさめると、舳先から細いロープを取り出した。
それには針金の鉤素と、中くらいの大きさの釣り針がついていた。老人は、そこにイワシを一匹つけ、船べりから投げた。
そしてロープの端を船尾のリングボルトにしっかり結びつけた。
それから別のロープにも餌をつけ、こちらは巻いたまま舳先に置いておいた。
彼は再び漕ぎ始め、黒く長い翼の鳥が水面近くで飛び回るのを見つめていた。
 老人が見ていると、鳥はまた翼を傾けて急降下し、むやみに大きく羽ばたいて、トビウオを追った。
その時、水面がわずかに盛り上がるのが見えた。逃げるトビウオを狙って、大きなシイラの群れが海面に近づいているのだ。
シイラたちは、滑空するトビウオの下を、水を切り裂きながら進んでいく。トビウオが水に落ちる地点まで猛進し続けるだろう。
これは大群だ、と老人は思った。
奴らは大きく広がっている。トビウオが逃げ切る見込みはほとんど無いな。
鳥がうまくやれる見込みはもっと無い。
あの鳥にはトビウオは大きすぎるし、トビウオのほうがずっと速い。
 トビウオが次々と海面から跳ね、鳥がむなしく飛び回る様子を、老人はじっと見ていた。
彼は考えた。シイラの大群には逃げられたな、
奴らの泳ぎはかなり速いし、もうずいぶん遠い。
だが、はぐれた奴が釣れることもあるだろう。それに、大物が奴らの後を泳いでいるかもしれん。
俺の狙う大魚は、どこかに必ずいるんだ。
 陸地のほうには、雲が山のように盛り上がっていた。海岸は、長く続く一本の緑色の線でしかなく、その背景にはくすんだ青色の丘が並んでいる。
海の青は暗く、ほとんど紫色のようだった。
海の中を見下ろすと、暗い水中に赤く散らばるプランクトンや、太陽の作り出す不思議な光の模様が見えた。
老人は、闇の中にまっすぐに垂れ下がるロープを見つめ、水中にプランクトンが多いことを喜んだ。それは、魚がいる印だからだ。
高く昇った太陽が、水中にあの不思議な光の模様を作るのは、天気のいい印である。陸地の上の雲の形もそうだ。
 鳥は、もうほとんど見えなくなってしまった。海面に見えるのは、日に焼けて黄色くなったホンダワラの切れ端と、船のすぐそばを漂うカツオノエボシだけだ(※カツオノエボシとは電気クラゲのこと。老人はこれを「悪い水」という意味のスペイン語で「アグア・マーラ」と呼ぶ)。カツオノエボシは、綺麗な形をしたゼラチン質の浮き袋を紫色の虹のように輝かせながら、
ひっくり返ったり元に戻ったりしていた。
まるで泡のように陽気に漂っていたが、水中には毒々しい紫色の細長い触手を一ヤードもなびかせているのだった。
「アグア・マーラか」彼は言った。「娼婦め」
 老人はオールを軽く押し、そこで海の中をのぞきこんだ。触手と同じ色の小魚たちが、触手の間や、漂う泡の陰を泳ぎ回っていた。
小魚たちは毒に対して免疫があるのだ。
しかし、人間はその免疫を持たない。もしも触手がロープに絡み、ぬるぬると紫色にまとわりつけば、ロープを引っ張る老人の手や腕に、みみず腫れと痛みをもたらすことになるだろう。
ツタウルシの毒でかぶれるのと似ているが、アグア・マーラの毒はもっと速く、鞭で打つように人を襲う。
 虹色の泡は美しい。
しかし奴らは海で一番の詐欺師だ。老人は、大きな海亀が奴らを食べてしまうのを見るのが大好きだった。
海亀は、カツオノエボシを見つけると、正面から近づいて行き、眼を閉じて全身の守りを固め、触手ごと丸々食べてしまうのだ。
老人は、海亀が奴らを食べる様子を見るのも、嵐の後の浜辺でカツオノエボシの上を歩いて、硬いかかとで踏みつけてポンと破裂する音を聞くのも好きだった。
 彼は、アオウミガメやタイマイを愛していた。優雅で、泳ぎが速く、値打ちがあるからだ。大きくて愚かなアカウミガメには、軽蔑混じりの親しみを抱いていた。黄色い鎧を着けて、おかしな求愛行動をする奴で、カツオノエボシを食べる時には幸せそうに眼を閉じるのだった。
 老人は過去に何年も海亀獲りの船に乗っていたが、海亀を神秘的な生き物だとは思っていなかった。
むしろ哀れに思っていた。小船と同じくらいの大きさで体重は一トンもあろうかという巨大なオサガメのことさえ、哀れんでいた。
ほとんどの人間は、海亀に対して冷淡だ。海亀の心臓は、体が切り刻まれても一時間は動き続けるからだ。
しかし老人は、自分の心臓だって同じだと思っていた。脚や手だって、亀と変わらない。
彼は力をつけるために、海亀の白い卵を食べていた。
五月中は卵を毎日食べて力をつけ、九月から十月には超大物と戦うのだ。
 彼はサメ肝油も飲んでいた。漁師たちの道具小屋にある、大きなドラム缶から、毎日一杯ずつ飲む。
飲みたい漁師は誰でも飲めるように置いてあるのだが、たいていの漁師はその味を嫌っていた。
しかし、早い時間に起き出す大変さに比べれば何てことはないし、飲んでいれば風邪やインフルエンザにも強くなる。おまけに眼にも良いのだ。
 
Copyright (C) Ernest Miller Hemingway, Kyo Ishinami
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